あまりにも俺自身の話だった






“依頼主の要望に応じて物語を作る集団、片説家。
木原は、片説家を雇っている会社、「ティエン・トゥ・バット」の社員だったが、27歳の誕生日に首を言い渡されてしまう。更に解雇された途端、彼は読み書きが一切出来なくなってしまった。
そんな折にある女性から小説を書いて欲しいと頼まれる。”

佐藤友哉著。三島由紀夫賞受賞。

この小説の主人公の人格を詳しく説明すると、自分とは違う感性に対して、厨二病だの幼稚だの(笑)を付けたりして馬鹿にし、自分にはない才能に対して、カッコ付けだの生意気だの傲ってるだの言って僻み、自分とは違う考え方に対して、浅はかだの独りよがりだの観念的だの言って蔑み、物事を真っ直ぐ見つめることを恥とし、皆が受け入れてるものを自分も受け入れることを恥とし、皆が認めないものを自分も認めないことも恥とし、全てを斜に構えて受け流しているうちに何も信じられなくなり、そんな自分をわざと蔑んで戒めた振りをして解決した気になっているような、要するに思春期が抜け切らずに成長した男の物語だ。

読んでいて仰天した。だってこの男がまんま昔の俺だったから。あまりにもそっくりそのままだ。
しかし本当に驚いたのは、この男の考え方や人格が、明らかに作られた偽りのものではなく、生のリアルな感情としてそのままに伝わってきたこと。著者である佐藤友哉本人が今まで内に秘めていたことを、そのまま書いたとしか思えない臨場感があった。
試しに彼の他の著書を読んでみて合点した。なるほど、要するに佐藤友哉は小説を自分語りの場としか考えてないのだろう。作者の自意識垂れ流しを無理矢理ストーリー付けてまとめるのが彼の小説手法なのだろう。
とにかく全編に渡って作者の主張というか、世の中に馴染めない自分を語りたいだけ語る自意識過剰なまでの俺が俺がの小説で、しかしひたすらに何かを訴えようとするその必死さは何となく舞城王太郎を連想するところがあり、と言うかメフィスト出身というところで既に被っているのだが、舞城王太郎と決定的に違う点は、舞城が一貫として言い続けているのが居た堪れなくなるほどの痛烈な人間愛であるモラリズムに対し、佐藤友哉の場合は自分が受け入れられない世の中への欲求不満と実は自分が世の中を受け入れようとしないだけでそれに気付いてるのに何も改善しようとしない自分への自己嫌悪なのではないかと感じる。
要するに、この小説は独りよがりだ。自分の事しか書いてないのだから。この小説を受け入れてくれるのは、佐藤友哉と同じ境遇を過ごした人しかあり得ないだろう。だから分かる人には分かるだろうし、分からない人には全く分からないと思う。この場合分からない方がその人は健全な気がする。
しかし残念なことに俺はこの小説が分かってしまう人種だった。この小説を読んで、俺はいたく心を揺さぶられてしまった。この小説を読んで、大変感動してしまった。全てを否定してるうちに何を信じて良いのか分からなくなることの苦しみが痛いほど理解出来るから。

佐藤友哉の小説は、「世間に溶け込めない自分」を一切の誤魔化しなく一心不乱に作中で喚き散らしている。ただそれだけだが、この暴走した漲るパッションはとても感情を揺さぶられるものがあり、人の心を動かせるということはすなわちそれは作者の才なのだろう。
しかし1000の小説とバックベアードはとても感動したが、他の彼の小説に関しては大して何も感じなかったあたり、偶々今回は共感出来る部分が多かったというだけで、根本的には厨二病臭くて鬱陶しいだけの作者だった。そこが彼の唯一であり最大の魅力なんだけどね。結局小説は分かる人に分かりさえすればそれで良いのだから、彼はこのままでいて欲しい。